俗説シリーズ2 「精霊風」(しょうろうかぜ) 登場人物 笹田 渺(ささだびょう) 岡崎華穂(おかざきかほ) 植田孝人(うえだたかと) 植田陽乃(うえだはるの) あらすじ その風に当たると意味不明の病に侵さるという精霊風(しょうりょうかぜ)。都市伝説とも思えるこの現象に係わってしまった岡崎華穂に意味不明の腫れが右足を襲った。果たしてその原因は? 今年のお盆は暑い。気象庁の話だと例年に比べて二度ほど高いそうだ。二度違うと体感的には随分暑く感じる。笹田渺は首に掛けたタオルで額の汗を拭いながら恨めしそうな眼を空に向けた。 折角夏休みに入ったというのに八月下旬に行われる高校生吹奏楽コンクールに出場するためほぼ毎日のように学校に来ている。全体練習ではエアコンの効いた音楽室でできるのだが、パート練習の際には場所がないため、中庭や渡り廊下で別れて行わなければならない。それなりに離れていないと音が混交するため自楽器の音を聞き取るのが難しくなるからだ。 渺はトロンボーンを担当しているが渡り廊下の三階、この学校は四階建てのため屋根のない直射日光の当たる場所でパート練習している。金管楽器ということもあり楽器自体も熱くなっていた。音色も微妙に変わってくるし、練習どころではない状況だ。 「しかし暑いな!」 渺は対峙して練習していた岡崎華穂に独り言のように言った。 「今日は特に暑いね。これじゃあ練習どころじゃないよね」 華穂も手を額に当て顔に影を作るようにしながら空を見上げた。 「全くだ」 その時上空から涼しい風が吹き込んできた。上空から地面に向かって叩き付けるように下ってきた風は、渺と華穂をひと時の間、至福の情感に包み込んだ。しかしその風は渡り廊下の床に当たると跳ね返るように巻き返し華穂のスカートを翻す。 「きゃっ!」 華穂は慌ててスカートを押さえるが、正面にいた渺には、わずかに薄いピンク色の残像が脳裏に焼き付いた。華穂は渺の方に向くと、 「見た?」 眉を寄せて難しい顔をして言った。渺は右手の親指と人差し指を少し広げて、逆に照れくさそうに笑った。 今日の練習は午前のみで午後からは休みになった。暑さのせいというのもあるが、お盆ということで、何かと家庭行事が忙しい時期でもあるため部活指導の先生も気を遣ったというか先生自体が忙しいのだろう。高校生では分からない大人の事情というやつがこの時期には圧し掛かってくるのだ。 渺は同級生の植田孝人と肩を並べて下校していた。 「植田、かき氷でも食べに行かないか?」 午前中の炎天下の元での練習と、ジリジリと焼き付くような日差しの中での徒歩下校で体内の水分が拡散されていくのが体感できる。 「いいね、いつものところに寄って行こう」 孝人も同意し、たまに利用する小さな喫茶店『クリエイティブ』に寄ることにする。しばらく暑さと闘いながら歩き『クリエイティブ』のドアを開けた。ひんやりとした空気が二人を生き返らせる。 「あれっ、お兄ちゃん!」 奥から聞き覚えのある声が聞こえた。声の方に視線を向けると、そこには孝人の妹で同じ学校の同じ吹奏楽部に所属している一年生の陽乃が一人で、細かい氷がぎっしり詰まった大きなガラスコップを前に涼んでいる。彼女もこの暑さに耐えきれず道草に寄ったのだろう。 孝人が陽乃の横に座ったので、渺は向かいに腰を掛ける。各々冷たい飲み物を注文して、しばらく寛ぐ。飲み物が運ばれてくると半分程一気に飲んで一息ついた。 「今日、すごい風が吹いたでしょ!」 陽乃が話題を持ちかける。 「ああ、あの風か。俺は屋内にいたからよくわからなかったけど脳天を叩き付けられたようなすごい風だったらしいな。岡崎が打ち返しの風で渺に見られたとか何とか言ってた」 「何を?」 陽乃が突っ込む。 「あれって精霊風だよな」 渺は数時間前のことを想起しながら呟くように言った。話題を変えたかったようだ。話題転換に再び陽乃が飛びついた。 「精霊風って何?」 渺は転換の成功にほっとしながら、 「気象学的にはダウンバースト、つまり下降気流のことを言うんだけど、この辺りではそのことを精霊風と言うんだ。今頃、お盆の朝方に吹くと言われていて、短なる風なんだけどこの風に当たると急病になったり、倒れてしまうなどの災厄に見舞われると言われている」 簡単に説明した。 「へえ、精霊っていうくらいだから、もっとロマンティックな話かと思ったけど、あまり気持ちのいい話ではないみたいだね」 「地域によっては、魔風とか天狗風とも言われるんだ、まあ迷信だと思うけど」 渺がそう答えた時、"カラン"と、お店のドアが開き、 「笹田! どうして待ってくれないのよ。一緒に帰ろうって言ったじゃない」 怒ったような声色で、先程何とかかわした話題の元である華穂が入ってきた。 「あっ、忘れてた! 靴を履きかえていたら偶然植田にあったからそのまま帰ってしまった。ごめん」 渺は右手だけを顔の前で立て頭を少し下げながら謝る。 「ごめんじゃないわよ、結構急いで着替えて出たのに、部室を出たら誰もいないし、靴箱を見たら靴もないし、辺りに姿はないし。多分ここだろうとは思ったけど」 言いたいことを言ってすっとしたのか空いている渺の隣の席に座りアイスレモンティーを注文した。 「何の話をしていたの?」 華穂は店内の涼しさに身体が順応してきたのか、ゆっくりとした口調で言った。 「朝吹いた風のことを話していたんだ。あれって精霊風と言って余り良い風ではないみたいだな」 孝人が問いに答える。 「あの風ね。凄かったもんね。確かに私には良い風ではなかったかも……。でも笹田には良い風だったかもね」 意地の悪そうな顔をして渺に向かっていった。折角変えた話題が再び元に戻りつつあった。 「何、何?」 陽乃が食いつく。何とも好奇心旺盛な子である。 「別に何でもないよ。ちょっとしたアクシデントみたいなものさ」 渺が答えると、 「確かにアクシデントだけど……。でもここの奢りは笹田に任せるね」 「何でだよ! 俺は何も悪いことやってないだろう。あの風のせいでたまたま岡崎の下……」 言葉を濁す。 「取り敢えず、俺は何も悪いことはしていない」 「まあ良いじゃないの、良い思いをしたんだから」 華穂は自分の右肩で渺の左肩を軽く押すような仕草をとりながら言った。 「良い思いなんかしてないぞ! 逆に嫌なものを見て迷惑している」 「失礼な!」 そんな二人のやり取りを植田兄はぽかんとした顔で、妹は複雑な表情で見ていた。 翌日、華穂は少し遅れて部活に現れた。右足首に包帯を巻き歩きにくそうにゆっくりとした足取りで部室に入ってくる。 指導の先生と数分話をしていたが、今日は部活を休むのか何の準備もせず渺の方にやってきた。 「笹田ごめん、今日は休むね。明日はいつも通りに来るから」 華穂は渺に向かって両手を合わせた。コンクール間近に休むのは全体の音合わせに支障をきたすので基本的に駄目なのだが、どうにもならない事情があるのか先生も受理したようだ。 「どうしたんだ、その足」 右足にまかれた包帯を見ながら尋ねた。 「昨日の夜急に腫れてきて、朝起きた時には痛くて歩けなくなっていたの。かなり熱を持っていたので冷感シップを貼って一応包帯を巻いているんだけど、これから病院に行くところ」 左足よりも一回り大きなっている右足を見ながら、昨日の会話を思い出していた。 「まさか精霊風と関係はないよな?」 「そんなわけないでしょ。あれは単なる迷信なんだし。そんなこと言っていたら笹田だってあの風に当たっているんだから何か起こってもおかしくないでしょ」 「俺は長ズボンをはいていたから直接当たったわけではないけど、岡崎はスカートだっただろ、その辺りにも違いがあるから一概には言えないような気もするけど」 「これから病院に行くから原因がわかるわよ」 そう言い残すと "じゃあね!" というように右手を挙げて部室から出ていく。そこに入れ替わるように植田兄妹が入ってきた。 「岡崎どうしたんだ? 足に包帯を巻いていたけど」 孝人が怪訝そうに言った。 「昨日の夜から急に右足が腫れてきたらしくて、これから病院に行くんだってさ」 「まさか昨日の精霊風に当たったからとか?」 陽乃も同じ事を考えたようだ。渺は苦笑しながら、 「さっき俺も同じことを言って、否定された」 「そうだよね、あれって迷信だよね」 翌日も華穂は学校に来なかった。先生に聞いても詳しいことは教えてくれない。コンクールも間近に迫っているというのに、気の入らない練習を終えるとその足で華穂の自宅に寄った。植田兄妹も同席している。 玄関チャイムを鳴らすと、中から当の本人である華穂が出てきた。 「何だ元気そうじゃないか! 今日は部活に来るって言っていたのに来ないから何か病状に問題でもあったのかと思った」 渺が心配して損をしたかのような口調で言うと、 「ごめん! ちょっと今日は気分が乗らなくて」 小さな暗い声色で答える。日頃から元気だけ取り柄のような華穂がこんなに落ち込んだ声で応えるということは、何かあったのは一目瞭然だ。 「で、結局原因は何だったんだ?」 渺が尋ねると、 「言わないと駄目?」 少し言いにくそうだ。 「そんな言い方したら余計気になるだろう」 華穂はしばらくの間沈黙を守っていたが、諦めたのか重い口を開いた。 「虫刺されだって…」 消え入りそうなほどの小さな声で、恥ずかしそうに言う。 「えっ、よく聞こえない」 「だから、虫刺されなんだって」 開き直ったように大きな声で言い直した。 「なっ、虫刺され? 何だ、心配して損した気分だな」 「だから私もあまり言いたくなかったんだよ。ちょっとばかし大げさに騒いだから何だか恥ずかしいでしょ」 華穂は俯いて、バツの悪そうな表情をしていた。 「で、何の虫に刺されたんだ?」 「先生の話だと、毛虫の気のようなものが風に乗って飛んできて足に刺さったんじゃないかって」 あれだけ強い風だと何が飛んできてもおかしくはない、毛虫そのものが飛来してもおかしくない程だった。それにしても毛虫の毛とは。予想外の展開に、そこにいた三人はどう対応していいものやら困惑していた。 「でも、まあ良かったじゃないか、原因もわかったことだし、たいしたことも無くて」 孝人が精いっぱいの愛想で言うと、 「そうだよ、あの風からしてもう少し上に刺さっていたらもっと大変なことになっていただろうし」 渺も何かを言わなければと思ったのか、取り繕うようなことを言った。 「もう少し上?」 渺の言葉に反応したのは陽乃だった。あまり深く考えなくてもよいその内容を頭の中で整理してしまい兄の方を向くと、何を想像しているのか遠くを見るような目つきで顔に締まりがなくなっている。陽乃は孝人の肩を軽く叩き、 「お兄ちゃん!変な想像しないの。ねえ、渺先輩……」 そう言って渺の方を見ると、自分で言っておきながら、兄と同じ顔をしている渺の姿があった。今度は華穂が渺の頭を叩く。 「本当に男ってやつは!」 華穂と陽乃が同時に同じ言葉を発した。 結局のところ精霊風とはこの長崎県五島地方の民間信仰であり、お盆時期に先祖の霊と共に無縁仏も現世に現れ、そうした霊が突然の発熱や悪寒などの原因と考えられたことに由来する。また夏バテお起こしやすいということや、害虫の発生も多い時期でもあるので、病気をもたらす風の伝承につながったのかもしれない。 完 |