「<外伝> 魔女と恋の彼方に」 登場人物
神崎洋平が家を出たのは午後二時を少し過ぎてからだった。約束の時間まで後十分を切っている。最寄りの駅まで急いで五分、そこから電車で十分、どう考えても間に合わない。 (麻美怒るかな?) そんなことを考えながらも足取りを速める。何かと問題になっている駆け込み乗車で何とか電車に乗り込むと、空いている席に腰を掛けた。今日は平日なので思ったより空いている。遅れることを麻美に連絡しておこうと携帯を取り出し送信メールフォルダを開いて簡単な文章を書き送信する。しばらくすると車内放送で目的地を告げる案内がああった。車両が減速し始め、完全に停車すると乗車扉が開いた。 洋平が席を立ち電車から降りようとしたとき、背後から「きゃっ!」という小さな叫び声が聞こえた。何事かと振り返る。洋平を含めその場にいた乗客の視線が一斉に一つの場所に集中した。 一人の女性が床にしゃがみ込み、すぐ脇にハイヒールの踵の部分が転がっている。どうやら立ち上がる際足を捻ったようだ。しかし周りにいた人達はそれを一瞥しただけで、無関心にも声さえ掛けることなく自分の世界に戻った。 洋平はその女性に近づき、 「大丈夫ですか?ここでおります?」 そう語りかけ、女性が小さく頷いたので、左脇から持ち上げるように立たせると、そのままゆっくりとした足取りで車両から降りた。ホーム内にある小さな椅子に座らせ、 「約束があるので僕はこれで行きますが、知り合いか誰かに連絡して迎えに来てもらった方がいいですよ」 そう言って立ち去ろうとしたとき、 「すみません。有り難うございました」 小さな声でお礼を言う声がした。洋平はもう一度彼女の方に振り返り、 「こういうときはお互い様ですから」 腕時計をチラッと見て、(やばい)という表情で走り出した。駅を出ると向かって左に見える大きな百貨店に向かって再び走る。その百貨店の中央口で待ち合わせしていた麻美の姿が小さく見えてきた。少し手前で減速して、 「ごめん」 謝りながら近づく。 「そんなに待ってないから気にしないで。じゃあ行きましょ」 麻美はそれほど怒っている風もなく、踵を返すと中に入っていった。幼なじみの関係にある麻美こと中山麻美と洋平の二人は、お互いのことをよく理解しているので、些細なことでは喧嘩にならない。麻美の方が半年ばかり年上なので、どちらかと言えば主導権は麻美の方にあり、その事がより二人の関係を円満にしているのかもしれなかった。関係と言っても今のところ二人は付き合っているわけではない単なる幼なじみに過ぎないのだが、傍から見ると恋人同士にも見えなくもないだろう。 「ねえ。何にする?」 麻美が横に並んで歩く洋平に話しかける。 「村さん今いくつかな?」 「来年還暦を迎えるはずだから、五十九歳だと思うけど・・・。」 「もうそんなになるのか」 村さんこと村岡晋は、洋平と麻美が小学生の時色々な遊びを教えてくれた近所のおじさんだ。とても面倒見がよく自分に子供がいなかったせいか、二人をかわいがってくれた。二人が揃って同じ大学に入学した時にも、我が子のように喜んでくれて、お祝いをしてもらったこともある。その二人の故郷に居るはずの村さんがなぜこの街にいるのかというと、彼はある慢性病を発症し近所の病院に通院していたのだが、容態が芳しくなく洋平達の通う大学の医学部付属病院がその手の専門医が居ることもあってこちらに入院することになったらしい。 その話を聞いた洋平と麻美はお見舞いがてら二年ぶりの再会に足を伸ばすことにしたのだ。 「村さん何の病気なのかな?それによって持って行けないものもあるんじゃないか?」 「確か腎臓関係の病気で・・・。ネフローゼ症候群ていってたと思うけど」 ネフローゼ症候群とは多量のタンパクが尿中に失われる結果、低タンパク血症、浮腫が出現する疾患で、症状が悪化すると腎不全になり人工透析をしなければならなくなる慢性腎臓病だ。 「だったら食べ物はだめだな。食事制限があるんじゃないか?」 「そうね。じゃあ病院て退屈そうだから何か暇つぶしになるような物にしましょ」 「村さん将棋とか好きだから、簡単な将棋セットと詰め将棋の本とかどうかな?」 「そういうのがいいかもね」 二人は子供が使うようなマグネット式の将棋セットと割と難しそうな詰め将棋の本を買い、目的の病院に向かった。といっても医学部付属病院はいつも二人が通っている大学に隣接して建てられているため、目新しさと独特の緊張感は微塵も感じられない。 一階の受付で病室を確認しその足で病室に向かう。目的の病室の前で立ち止まりドアの外に掲げられている銘板に書いてある名前を確認すると、ゆっくりとドアを開けた。 村さんはベットに上半身を起こしベットテーブルの上で何かを書いていた。 「こんにちは。村さん!」 洋平が明るく声を掛ける。その横で麻美が小さく頭を下げた。 「あれっ!洋平に麻美じゃないか。・・・えっ!何で?」 村さんはびっくりしたような顔で二人を迎えた。 「噂で村さんが入院したって聞いたから。それに俺たちこの大学に通っているし」 「そう言えば二人ともこの大学だったかな?世の中狭いものだ、二年ぶりくらいかな?」「そんなことより具合はどうなんですか?」 「それなりってところかな。まあこっちに座って座って!」 ベット脇にある椅子を二人に勧めた。それからしばらく昔の話に花を咲かせ、赤面するようなこともお互い暴露されたが大いに会話が盛り上がった。村さんはとりあえずは元気そうで、二人は少し安心した。そろそろ時間も押し迫ってきたので、 「じゃあそろそろ帰ります。近いんでちょくちょく顔を出しますから」 洋平はそう言って腰を上げ、麻美も後に続く。 「今日は有り難うな!」 余程気分がよかったのだろう満面の笑みで送り出してくれた。 病室から出て、エレベーターで一階の受付フロアーに降りたところで、見覚えのある顔に遭遇した。向こうも気がついたようだ。二人とも「あっ!」という顔をしている。 「先程は有り難うございました」 深々と頭を下げる。電車で足を捻った女性だ。 「大丈夫でしたか?」 洋平も声を掛ける。 「軽い捻挫らしくて、二、三日もすれば痛みもとれるだろうって」 「大事に至らなくてよかったですね!」 「はい。・・・私尾崎美歩と言います。よければお名前を教えてくれませんか?」 「神崎洋平です」 「またお会いできそうな気がします。そのときにはお礼をさせてください」 「気にしなくていいですよ」 そんなやりとりの中、洋平の少し後ろにいた麻美は、面白くなさそうな顔で二人の会話を聞いていた。 「それではまた」 尾崎美歩は確実に次の再会があるような口振りで挨拶すると、受付の窓口の方へ歩いていった。 「すごく綺麗な人ね」 麻美が斜め後ろから、皮肉のこもった言い方をした。 「さっき、来る途中電車の中で足を捻ったらしくて、少しばかり手を貸しただけだよ」 「その割には感謝の度合いが大きいような気がするけど!」 「そういう性格なんじゃないか!律儀な人なんだよ」 「綺麗な人を見るとすぐ物事をいい方にしか考えないんだから・・・。私あの人何だか気になるんだけどな。いやな感じって言うか・・・」 「嫉妬してるのか?」 麻美の手の平がが洋平の後頭部を軽くとらえた。 「自惚れないの!」 それから数日後、洋平はいつもの家庭教師のバイトを終え帰宅の途についていた。洋平の教えている中野由美加という生徒は、県内でトップクラス、全国でも五本の指に入るであろう超有名高校に無事入学した。地元ということもあり、そのまま継続して家庭教師をしている。 今日は早い帰宅となったので空はまだ明るい。少し寄り道して大型書店に寄ることにした。地上三階建ての大きな書店で、目の前に街中公園があり、そこで買った書籍を公園のベンチで読むというのが、当たり前の光景として周知されていた。 洋平も同様にお気に入りの推理小説を購入し公園内に入っていった。空いているベンチを探していると、背後から声が掛かる。 「神崎洋平さん?」 洋平が振り返ると、あの時の女性―尾崎美歩が両手に大きな紙袋を持って立っていた。 「やっぱりお会いすることができましたね。私先日病院で会ったときに何となくあなたとこれから何らかの関係が出来るような気がしてました。」 待ち人ここに来たりというような笑顔で嬉しそうに意味深な言葉を言った。洋平も三度偶然が重なると多少なりとも運命のようなものを感じてしまう。そのせいか尾崎美歩の容姿を確認するように見つめていた。髪は肩より少し長いくらいで、綺麗なストレートだ。髪先を少し内側に丸め込むようにしている。目鼻は整っていてそこら辺のモデルより綺麗なかもしれない。スタイルも出るところは出、括れるところは括れているのが服の上からでも判る。 「時間があればあのベンチに座りません?」 今の場所から少し奥に入った大きな樹木の脇にある小さなベンチを指さしながら美歩が言い、洋平の返事を聞かないうちにそのベンチに向かって歩き始めた。洋平も何かに憑かれて従わざるを得ないような状態でその後を追う。 二人はベンチに腰を掛けると、 「私、地方から出てきたばかりで、知り合いはいないし、実は住むところも決まってなくて今は安いカプセルホテルに泊まってるの。寂寥感にさいなまれていた時にあの事故でしょ。あの時神崎さんに声を掛けられてすごく嬉しかった」 美歩はミニスカートで足を組んで座っているので、悲しき男の性かついついそちらの方に視線が行ってしまい今の言葉を半分上の空で聞いていた。 「これからどうするつもりなんですか?」 「とりあえず住むところを決めて、それから仕事を探していこうと思ってる。余りお金も持ってないし出来るだけ早く決めないとそれこそ路頭に迷いかねないから」 「僕が住んでいるアパート一部屋空いてるけど入れるかどうか大家さんに聞いてみましょうか?」 そうは言ったものの、たかだか三回程会っただけの人にそこまで・・・と自問自答しながらも、 「本当?」 と、言う彼女のキラキラした瞳を見てしまうと、言った手前後には引けなくなってしまった。 「でもかなりボロですよ」 「全然問題ないよ」 (まあとりあえず掛け合うだけ掛け合ってみるか!)そう心の中で自分に言い聞かせ、お互いの連絡先である携帯番号とメールアドレスを交換した。 「神崎さんは今幾つ?」 突然話題が変わった。 「十九ですけど」 「じゃあ私の方が年上だ」 「幾つなんですか?」 「女性に年を聞くの!・・・二十四よ」 確かにそれ相応の色気というものを感じさせる。洋平は年上の女性の魅力というものを感応していた。 「!!」 「!?」 突然座っていたベンチが揺れ始めた。洋平は地震かと思ったが、どうも周りの雰囲気がおかしい。他のベンチに座っている人は全く慌てる風もなく読書に没頭している。よく見るとこのベンチだけが小さく揺れているのだ。そうしているうちに急にベンチが浮き上がった。二人を乗せたまま二メートル程の高さに上がると、今度は馬が暴れるロデオのように前後左右に揺れ始める。流石に周りの人達も異変に気付きこちらの方に視線を向けると、慌てたように三々五々散らばっていった。洋平は必死にベンチにしがみついていたがしばらくすると揺れが急に止まり、ベンチごと落下した。二メートルの高さから落ちたベンチはバラバラになってしまったが、ベンチがクッションになり幸い二人はかすり傷程度の怪我しかしなかった。 「な、何なんだ?」 洋平はその場に立ち上がると、美歩に手を差し伸べながら言った。その手を取り美歩も立ち上がる。二人で衣服についた砂を叩いていると、美歩が 「洋平君、特殊な技能って言うか力持ってない?」 いつの間にか呼び方が神崎さんから洋平君になっている。 「どうしてですか?」 「何となくそんな感じがしたから・・・ねえ悪魔って信じる?」 唐突な質問にどう答えていいか迷っていた。 「悪魔は本当にいるのよ」 それから彼女は自分が魔界から来たということ、堕天使ルシファのも元で仕えていたということ、ルシファは決して悪魔ではないということ、魔界に嫌気がさし現世に逃げてて来たということ、そして脱魔界という戒律破りに魔力を封印されてしまったということ等、到底信じられないようなことを喋り続けた。 洋平も間に口を挟むことが出来ず黙って聞くことしか出来なかった。 「ルシファ様は現世では悪魔の扱いだけど、本当は上級天使でサタンの罠にはまり堕天使になったのよ。だから心は天使なの、私はそんなルシファ様に惹かれてついていっていたのに・・・。サタンとデーモンの残虐ぶりのせいでルシファ様にとばっちりが来て、この世でのあの方の認識はひどすぎるわ」 そこまで言うと俯きかげんになって黙り込んでしまった。 「・・・」 「信じられないでしょうねこんな事」 「・・・」 「私のこと変な女だと思ってるでしょ?」 「・・・」 洋平は黙り込んだままどう言っていいか判らなかったが、なぜこんな話を自分にするのかという素直な疑問を口に出した。 「どうして僕に話をしようと思ったんですか?」 「何となく洋平君なら信じてくれるかなと思って」 彼女は顔を上げ洋平の方を向くと少し寂しそうに言った。 「私にはもう魔力はないけど、感覚的にあなたには大きな力のようなものを感じるの。その瞳がルシファ様と被るような感じがして」 気が付くと当たりが少し薄暗くなっている。二人はそれからも少し話をしたが、お互いの連絡先を再確認していったん別れることにした。別れる際に 「美歩さんの言ったこと信じますよ」 そう言って微笑む洋平に、美歩も嬉しそうに手を振っていた。 洋平は自宅に着くと徐ろにノートパソコンを開け、堕天使ルシファについて検索すると、天から地に投げ出された暁の輝ける子として紹介されていた。色々な説があったが、その中で最も一般的なものを要約すると、堕天使の筆頭にして、悪魔界でも最高の権威の持ち主が、このルシファだ。堕天使という言葉が語るとおり、墜ちる前は「暁の輝ける子」が正式な名前だった。天使時代の位では、熾天使よりさらに上に置かれている。 ではなぜ、天使世界でそれほどエリート中のエリートだったルシファが堕天使となってしまったのだろうか。「イザヤ書」では、かつては自他共に認める存在だった大天使ルシファは、神に成り代わって玉座に就くことを望んだために、神の怒りを買って地上に落とされたというのである。このとき落ちたルシファの衝撃で地上に巨大な穴があき、そこに地獄が出来たと伝えられている。 実際、ルシファと地獄は強力に結びついており、アダムとエバに禁断の知恵の実を口にするように唆したのもこのルシファだったと言われている。要するに全ての悪の根源がルシファなのである。 俄に伝説じみていている。実際聖書というのはどこまで物語としての信憑性があるのかが皆無であるが、それを信じる人にとってはまさに聖なる書物なのである。 彼女はひょっとして悪魔崇拝者なのだろうかと疑問を持ったが、決してそんな風には見えない。実際あの時に起こった怪奇現象は洋平も現実に体験しているので、それをどう解釈すればいいのか考えても、彼女の言ったことに当てはめて考えるのが一番妥当のような気がする。 それからしばらく他の可能性も色々考えてみたが、しっくりとくる該当事項に考えが及ばなかった。 夜も午前二時を回ったので、モヤモヤとした状態のままベットに潜り込んだ。横になっても中々寝付けなかったので、美歩の言った言葉を脳裏で何度も反復しながらまだ考えていたががいつの間にか眠っていた。 洋平は奇妙な夢を見ていた。美歩が逃げている。その後ろを、頭に大きな角を持ち鬼面のような形相で、体が巨大な蛇の胴体に八本の手足がある奇妙な生物が追いかけていた。彼女は必死に逃げていたが、ついにその生物に捕まってしまった。途端、今度は美歩が奇怪な変体を遂げてその生物と血生臭い戦いを始めたのだ。 「!」 額から汗を流しながら上半身をベットから起こした。呼吸も荒くなっている。意識が現実に戻ったのか、大きく二、三回深呼吸をすると、頭元にある目覚まし時計を見た。 (五時半か) 外はすでに明るくなってきている。洋平はベットから起き上がると冷蔵庫を開け半分程お茶の入ったペットボトルを取り出すと、二口、三口程飲み、 「ふう!・・・しかし変な夢を見たな」 声に出してそう言うと今度は一気に飲み干した。 午前中の講義も終わり、洋平は久し振りに学食で昼食をとっていた。食事も終わり立ち上がろうとしたとき、麻美と土井秀樹がやって来た。 「洋ちゃん、今日は早いランチだね」 麻美が手に持ったお盆をテーブルに置きながら言った。今日もうどんをのようだ。 「ちょっと調べたいことがあるから図書館に行こうと思って」 「何を調べるの?」 「悪魔とか天使って信じる?」 麻美の問いに答えず、逆に質問した。 「天使は信じたいけど、悪魔は信じたくない」 「何だそれ!すごく都合のいい解釈だな。解るような気もするけど」 横で二人のやり取りを黙ってみていた秀樹が、 「どうしたんだ?変な宗教団体にでも感化されたのか?」 「そんわけないだろ!」 「じゃあ何で急にそんなこと」 「なあ麻美。この間会った女の人のこと覚えてるか?」 今度は洋平の問いを無視して、麻美に問いかける。 「あの綺麗な人?」 面白くなさそうな表情で答える。どうも彼女とは相性が合わないのだろう。俗に言う嫉妬の気持ちが入っているのかもしれない。 「昨日偶然に街で会ってさ、少し話をしたんだけどその時に変なことが起こって・・・」 昨日起こったベンチ浮遊事件と、その後彼女の言った堕天使と悪魔の話、洋平には特殊な力があるのではないかという話を掻い摘んで話した。特に洋平の覚醒については、麻美と秀樹、そして野田美紀、白河緑の四人しか知らないことで、それ自体が頻繁に起こることではない、洋平自身何故そうなるのか、どういったときにそうなるのかが解っていないのだ。 その事に感覚的にかもしれないが、うっすらと気付いている彼女はいったい何者だろうか?多少の不気味さはあるが洋平が彼女に興味を持つことは必然なことかもしれない。 「何だか最近の洋ちゃんの周りって、ちょっと変なことが起きすぎない?」 「そうだよな。ここ半年の間に洋平の周りで変な事件が頻繁に起こってるような気もするけど。なあ、おまえの目が青くなり始めたのはいつ頃からなんだ?」 「多分、白河が誘拐された時が初めてだと思うけど、それと事件との関連性があるのかな?」 秀樹が少し考え込んでいると、横から麻美が、 「そう言えば昔洋ちゃんのお母さんが言ってたのを今思い出したんだけど、小さいときから時々洋ちゃんの周りで変わったことが起こってたみたいよ」 「そうなのか?例えばどんなことがあったって言ってた?」 「詳しい話は余り覚えてないけど・・・。」 麻美は両手の人差し指の先を摺り合わせるようにして、過去の会話を思い出そうと努力していた。周りも皆沈黙を守っている。しかし麻美の脳裏にその記憶が映し出されることはなかった。 「だめ!思い出せない!」 「まあ、そんなことはどうでもいいけど、その尾崎さんていう人、どんな人?」 秀樹が興味津々に問い質す。 「年は二十四歳、割とハキハキした感じで話しやすくて、どもどことなく翳りを持っているような、それでもって・・・」 「すごく綺麗なのよね。もう歳まで知ってるんだ!」 麻美が相変わらず棘のある言い方をした。 「確かに綺麗な人だけど、なんて言うのか・・・引っかかるんだよな。作られた顔みたいな感じがしてさ」 「整形してるってこと?」 「それとはちょっと違うような気もするんだけど。それにホテル暮らしをしているみたいで、どこから来たのかも分からないし、何せ謎だらけの人だよ」 「何かそう言うのって男心を擽るね」 秀樹が茶化す。 「洋ちゃん、やっぱり余り関わらない方が良いような気がするんだけど」 やはり何か感じるものがあるのか、麻美は心配そうな表情をしている。単に嫉妬だけでは無く、洋平の性格を知り尽くしているだけに、のめり込んで事件か事故に巻き込まれるのを恐れているのだ。 「もうこんな時間だ、俺図書館に行ってくる」 食堂の掛け時計を見て、洋平は慌てて立ち上がった。その際麻美に向かって、 「そんなに心配しなくでも大丈夫だよ。また後でな」 そう言って小走りに食堂を出て行った。 尾崎美歩はホテルに戻ると先にシャワーを浴び、夕食を取るために再度部屋を出た。午後八時、夕食にしては少し遅い時間だが、人間の世界に慣れるためにも仕事を探して順応性を高める必要がある。今日一日仕事探しに奔走していたためこんな時間になってしまったのだ。 ホテルを出ると時々寄っているファミレスに足を運んだが、余り食欲も無いため軽食で済ませる。店を出るとその足で先日洋平と再会した公園に向かった。こんな時間にいるとは思わなかったが、もしかしたらという期待がそこに向かわせた。 美歩は自分が洋平に惹かれていることに少なからず気付いていた。まだ二,三度しか会っていないというのに何故か気になる存在として心の中で大きくなってきている。洋平には美歩をと言うより、魔界の住人を引きつける何かを持っているのだろうか。 公園内に入り洋平と座ったベンチの前に立つ、ベンチはまだバラバラのままの姿でそこに放置されていた。数分だろうか、いや数秒かもしれない。美歩はそのゴミのようになったベンチの前で何かに思い更けているように立ち尽くしていたが、ベンチに背を向け公園入り口の方に歩き始めた。2、3歩程歩いただろうか、背後で“ガタガタ”という音がした。ビクッとした様子で振り返る。目の前で異変が起ころうとしていた。バラバラになったベンチの木片が物の怪に取り憑かれたように小さく揺れ、何かを形取っていく。 そしてそれは奇妙で見たこともない様な生物に形を変えた。頭に大きな角を持ち体が巨大な蛇の胴体に八本の手足がある奇妙な生物、見たままを表現するしかない。世の中には存在しない物だった。 異形な生物は美歩に攻撃焦点を定めると、ゆっくりとした動きで近づいてきた。美歩はしばらくその場から動けず、硬直状態になっていた。その間にもそれは近づいてくる。後もう少しで接触と言うところで、美歩は我に返り、慌てて走り出した。後ろでガタガタという音がするが、 美保は振り返ることもせず公園の入口に向かって今自分のもてる最大速のスピードで走っている。走りながら無意識のうちに洋平の携帯に連絡していた。ツーコールもしないうちに繋がる。 「洋平君、助けて!」 洋平は自宅で寛いでいた。図書館で天使と悪魔について調べてみたが、昨夜ネットで見た内容と大差ないことしか確認できなかった。帰りにアパートの管理人に空き部屋について聞いてみたが、残念なことに既に入居者が決まっていて、その事を美歩にどう告げようか思案しながらゆっくりとした足取りで帰る。部屋に入ると、お腹から空腹を告げる音がしたので、取りあえず食事をすることにした。といっても買い置きのカップラーメンと、レンジで作るご飯という何とも質素な食事だった。月末の為、持ち金も少なくバイト代が入るまでは仕方のない食生活である。 食事が終わると、部屋のほぼ中央にある小さなテーブルに飾りのように置かれた座椅子の様なソファーに座り込むと、足を投げ出しリラックス体制に入った。しばらくボーッとしていたが、美歩に部屋のことを連絡するのを思いだし、テーブルに置いてあった携帯に手を伸ばす。しかしすぐにはかけることが出来ず、どう言おうかと思案していたところに、タイミングが良いのか悪いのか、けたたましく携帯が無い響き、その当人から連絡が入った。 「洋平君、助けて!」 切羽詰まった声で、助けを求める美歩の叫び声が聞こえた。背後でバタバタと何かが倒れるような音が聞こえる。 「どうしたんですか?」 洋平もただ事ではない気配を察知して、神妙な声で返したが何の返事も帰ってこない。受話器の向こうでは“バタバタ”“ガラガラ”という擬音と美歩の逃げ惑っている様な小さな悲鳴だけが聞こえるだけで、洋平はこの状況をどうすることも出来ないまま、返ってくる音に耳を傾けるしかなかった。 急に静かになった。受話器からは今度は何の音も聞こえてこない。それはそれで不安になる。 「美歩さん!美歩さん!」 洋平は美歩の名前を連呼した。しばらく待つと、 「洋平君!」 美歩の声が返ってきた。 「大丈夫ですか?」 「今少し収まったみたい」 「収まった?」 電話越しでは今の美歩の状況を把握するのは難しい。 「今、この間の公園にいるの・・・」 そこまで聞こえたとき、再び“バタバタ”“ガラガラ”と言う音が聞こえ始め、それと共に美歩の声は悲鳴に変わった。そして受話器から“プーッ、プーッ”という受話器の切れた音に変わる。 洋平は部屋の鍵だけを無造作に掴み取り、慌てて部屋を出た。目的の公園までは大した距離ではない、自転車を飛ばせば二十分もかからないだろう。アパートの前にある小さな駐輪場に置いてあった自転車を引っ張り出すと、ナンバータイプのワイヤーロックを外し飛び乗る。根限りの脚力でペダルを漕いだがこういうときに限って思ったように進んでいかないような気がする。しかし実際は予定よりも五分程早い十五分で目的の公園に着いた。公園の周りにはまだ多くの人がいたが、普段と代わり映え無い情景で、至って平和に見える。電話で聞こえていた異音もどこからも聞こえてこなかった。 洋平は不振に思いながらも公園内に入っていった。 「!」 公園の敷地に足を踏み入れた途端、ものすごい音というか鳴き声の様なものが脳にまで響いた。無意識のうちに耳を押さえて後ずさり、公園から出ると先程の轟音が嘘のように静かになっている。首をかしげながらもう一度入ると、何かが倒壊しているような不快な音が鳴り響いている。その音は公園の内部だけしか聞こえないようだ。 しかし何故公園内には人がいないのだろう。辺りを見回しても人影らしきものは確認できない。まだ九時を少し回ったばかりだ。いつもなら少ないとはいえ数人の人が往来しているはずである。 不振に思いながらも足を前に進める。異音がだんだん大きくなってきたなと感じたとき、突然目の前の木々がバタバタと倒れ始めた。その先に体調が三メートルはあろう奇妙な生物が蠢いている。洋平にとってその生物は記憶に新しい物だった。昨夜見た夢に出てきた奇妙な生物そのものだったのだ。その生物の数メートル先に逃げ惑う美歩の姿があった。夢では美歩も奇妙な変体を遂げていたが、現実はか弱い女性のままで、こちらに向かって走ってくる。 「洋平君!」 美歩は洋平の名前を叫び、抱きつくようにしがみついた。追っていた魔物も動きを止め、二人を伺うように見ている。 「何ですかこれは?」 洋平は美歩に抱きつかれたままの体勢で訪ねた。 「だから言ったでしょ。私は魔界から来たって!」 「追っ手?」 「そうよ。多分この公園は魔世界に対する結界が弱いんだと思うの。そこに今度は魔界の結界を張って、彼等が具現化出来るように負の力を溜めているのよ」 実際にそんなことがあるのだろうか?しかし現実に洋平の目の前では、実体として存在する魔物がいる。 様子を伺っていた魔物が自分を大きく見せるように頭の部分を上に持ち上げた。そして鳴き声だろうか、怪奇な叫び声をあげた。公園に足を踏み入れたときに聞いた異音で、頭の中にまで響いてくる。しかも今回は至近距離からなので、脳が揺れるように痺れてくる。 「くっ!」 立っていられない。洋平は耳を押さえその場にしゃがみ込んだ。美歩が心配そうに洋平の両肩に手を置き、魔物の方を睥睨している。魔物も美歩の眼力に威圧されているようだ。お互い一歩も譲らず均衡を保っている。 先に動いたのは魔物の方だった。均衡に痺れを切らし、大きく体を仰け反らせると二人に向かって突っ込んできた。 その時だった。洋平の体を金色の光が包み、眩いばかりの光源をつくった。しばらく放っていたその光が薄くなって来るとそこに紺碧の瞳をした洋平が立っていた。魔物の動きが再び止まり、今度は怯えるように後退りし始めた。横にいた美歩も困惑して洋平の方に向く。 「ルシファ様!」 美歩の一声が魔物の怯えた理由を説明していた。洋平は何も言わず左の手の平を魔物の方に向けるとその指先に力を込める。肉眼では見えないが何かオーラのようなものが手の平から出ているのを感じることが出来た。横で美歩は微動だもしないで洋平の姿を凝視している。洋平の手に一層の力が込められた。その瞬間目前にいた魔物はガラガラと無機物のように崩れ始め、数分後には元の木片になっていた。しかし洋平は力を維持したままで手を下ろさない。 その先に黒い靄のようなものが立ち始める。木片を操っていた物の本当の正体か?黒い靄は次第に形を形成していき、完全に現わしたその姿は漫画や雑誌とかで見る悪魔の姿と相違なかった。しかしその悪魔には戦闘の意志はなく逆に完全に怯えきっている。悪魔が怯えるというのもおかしな表現に感じるが、差し出された洋平の手の平から視線を外すことが出来ず身動きできないようだった。 「お前が何者か知らないが、この世界かで出て行け。ここはお前達が往来して好き勝手出来る世界ではない」 凛とした洋平の声に一層の畏怖を感じたのか、その場から逃げようとしたが思うように体が動かないようだ。 広げられていた洋平の手がそのままの姿勢で握られた。それと同時に対峙していた悪魔が苦しそうに悶え、体中を自分の鋭利な爪で掻きむしる。全身から深緑の血液と思われる体液が流れ出した。そして洋平が何かを呟くと、まるでブラックホールに吸い込まれるように、一つの点に向かって小さくなっていき、その残った一センチ程の点が小さく弾けその存在を消滅させた。 公園内に何人かの人が入ってきた。今まで結界のせいで入ることが出来なかったようだ。公園内の空気が変わったのが体感できる。しかし美保はまだ放心状態だった。洋平の瞳も紺碧のままだ。端から見れば怪しい二人に見えるかもしれない。 洋平は美歩の方に振り返り。彼女の顔を凝視する。美歩もその澄んだ紺碧の瞳に意識を完全に征服されているようで、脳からの指令が躰のどの部分にも到達されなかった。 「美歩さん!あなたの本当の名前は<グノーム・グノミド>土の精霊、悪魔に唆されたという下級悪魔ですね。」 洋平は聞いたことの無いような名前を口に出したが、それに対して声に出して返事をすることすら出来ない。まだ束縛の解除は出来ていないようだ。しかし無意識のうちにか小さく頷くことが出来た。 「あなたはどうしますか?」 「ど・う・す・る・っ・て」 辛うじて擦れたような声を出した。 「魔界に帰りますか?」 今度はぎこちなく首を横に振った。 「人間界に残るというのですか。それはそれで構いませんがこの世界で生きていけると思いますか?」 「・・・」 「あなたは年を取らない。しかし人間には寿命というものがある。逆に辛くなるかもしれませんよ」 美歩は少し落ち着いてきたのか、魔族の持つ本能の力ような物なのか少しずつ躰に自由が戻ってきた。 「神崎様は力になって下さいますか?」 言葉遣いが丁寧になっている。高貴な存在というのは天使にも悪魔にも関係なく伝わるものなのだろうか?すがるような瞳で洋平を見つめていた。 「出来るだけの尽力はしますが、力になれるかどうか分りませんよ?」 「有り難うございます。感謝します」 美保はその場にひれ伏すように膝を地面につけた。しばらく沈黙が続き、周りを歩いていた人が何事かと、こちらを見ながら歩き去っていく。 「美保さん立って下さい。周りの人の視線が痛いんですけど」 美保の正面から聞こえる声の質が変わっていた。美保が頭をあげると、そこには漆黒の瞳をしたいつもの洋平が立っていた。今の状況にアタフタしてかわいい。 「神崎様」 今の洋平はどう見ても神崎様ではなく、洋平君だ。 「洋平君で良いですよ。こっちが恥ずかしくなってきます」 「でも・・・」 「僕も、もう一人の自分のことは理解しているつもりです。その人格や力が何なのかは解りませんが。記憶もハッキリしています」 洋平の指しだした手を取ろうとしたが恐れ多いと感じたのか、美保は自分でゆっくりと立ち上がった。 「先程も言ったように微力ながら力になりますから」 差し出した手を下ろしながら、洋平は明るい声色で言った。 「それと今日のことは二人だけの秘密にしましょう。だから今まで通り洋平君で気さくに接して下さい」 「解りました」 「解った!」 躊躇しながら 「解った!そうする」 そう言って微笑した。とても美しい笑顔だった。 それから数日後、美保から就職が決まったという連絡が入り、どんな仕事かを訪ねても「また今度ね」とはぐらかされて教えてくれなかった。すこし気を遣っているような話し方だったが、以前の美保に戻っているようだ。 美保からの連絡の後直ぐに今度は麻美から連絡が入り、明後日村さんが退院するという話を聞いた。しばらく他愛ない話をしたがこの間の出来事は麻美にも話さず、村さんの退院祝いをするという話をして電話を切った。 村さんの退院当日、洋平と麻美は十一時には退院するというのを事前に聞いていたので午前十時には病院に来ていた。 村さんの退院の準備も終わり病室の他の患者さんと挨拶を交わし、病室を出て一階の受付に降り、退院の手続きをするため専用窓口に歩いて向かっているところに、 「洋平君!」 背後から聞き覚えのある声がした。三人同時に振り返る。村さんは“おっ!”という顔をし、麻美は少し敬遠がちな顔をした。 「美保さん」 そこにはこの病院の事務制服を着た美保が立っていた。 「私、この病院に就職したの、ここなら洋平君と直ぐ会えそうだし」 「仕事決まって良かったですね」 「有り難う。これからもよろしくお願いします」 意味深な事を言いながら深々と頭を下げた。洋平の横で細かい事情を知らない二人は、それぞれの思いを表情に出していた。 第一部完 |